金栗四三(かなくり しそう)

年明けの風物詩と言えば、誰もが見た事のあるのが箱根駅伝ではないでしょうか?2019年は東海大学が5連覇を狙った青山学院大学を退けて初優勝しました。そんな箱根駅伝とゆかりの深い人物が金栗四三(かなぐりしそう)です。金栗四三の生い立ちや人物象も含めて説明をしていきましょう

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金栗四三の生い立ち

金栗四三は1891年に熊本県玉名郡春富村(現在の水町)で生まれました。旧制中学を卒業後は東京高等師範学校(現在の筑波大学)に入学すると、その健脚は瞬く間に成長を遂げて、翌年の1911年にはマラソン足袋で当時の世界記録を27分も縮める大記録(2時間32分45秒)を出し、日本人初のオリンピック選手となりました。
ただ日本人として初めて出場したストックホルムオリンピックでは、レース中に熱射病で意識を失い倒れて、目が覚めたのは翌日の朝であったと言われています。
しかし残念な事に当時は日本人が初参加でフォロー体制が整っていなかった事、日本からスウェーデンい行くまで、船とシベリア鉄道を乗り継ぎ20日もの日数がかかった事、またスウェーデンは白夜であり睡眠に支障を来していた事やレース当日が40度を超える猛暑であり半数程度のランナーが棄権したことから、悲劇とも言えるレースだったのです。
また1920年のアントワープオリンピック、1924年のパリオリンピックにもマラソン代表として出場しています。
そして1920年には金栗四三の尽力により、第一回の東京箱根間往復大学駅伝競走が開催され、今なお続く年明けの風物詩となっています。

金栗四三の人物像

金栗四三はオリンピック出場により、世界各国のスポーツ教育の水準を目の当たりにして、当時軍国主義が蔓延っていた日本の教育にもスポーツ教育を導入しようと奔走します。
女学生の心身を鍛えることは日本という国においても重要な事であると考えて、女子体育の振興にも大きな力を注ぎました。
また初めて出たストックホルムオリンピックの際の後の言葉で「大敗後の朝を迎う。終生の遺憾のことで心うずく。余の一生の最も重大なる記念すべき日になりしに。しかれども失敗は成功の基にして、また他日その恥をすすぐの時あるべく、雨降って地固まるの日を待つのみ。」という言葉を残しています。
当時はまだオリンピックやスポーツに対する理解が少なく、オリンピック出場は地元の寄付や援助によって賄われていました。そんな応援してくれた人に対する責任感と次へ向けた前向きな気持ちがこの言葉に表れているのではないでしょうか。

金栗四三の偉業

偉業1.スポーツマンとして初めて紫綬褒章を受賞
偉業2.マラソンでの世界記録の樹立
偉業3.日本マラソンの父と呼ばれ、マラソン界の発展に尽力
偉業4.箱根駅伝の創設に大きく尽力
偉業5.日本のスポーツ教育の礎を作る
箱根駅伝ばかりがフューチャーされがちですが、女性スポーツや学生スポーツの地位の確立など、教育者としての立場から世界を見てきた視野を持って物事に取り組まれていました。

金栗四三の作品や名言

「体力、気力、努力」という有名な言葉があり、一生涯走り続けるという意志と強い精神力が言葉に乗り移っていると言えるでしょう。
また2019年には大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」に金栗四三が主人公の1人として取り上げられる事になっており、更に注目がされるでしょう。

金栗四三のまとめ

箱根駅伝の創設や日本マラソン界の成長に大きく尽力をしており、今なおその偉業は箱根駅伝の最優秀選手と「金栗四三杯」が贈られており、後世に名を残す偉人の1人と言えるでしょう。
また今年の大河ドラマの主人公となる事でも大きな注目を集めています。

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