徳川家康(とくがわいえやす)

NHKの大河ドラマでも主人公として取り上げられており、日本では知らない方はいないことでしょう。戦国時代から、安土桃山時代にかけての戦国武将であり、大名であり、天下人でもあります。そして長きにわたって続いてきた戦国時代を終わらせ、江戸幕府を開府し征夷大将軍にもなった人物です。今回は、歴史にその名を刻んできた、日本人なら誰もが知っている「徳川家康」について生い立ちや偉業などを踏まえて深く解説していきます。さらに「徳川家康」が好きになる事間違いないでしょう。

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徳川家康の生い立ち

「徳川家康」は、1543年、三河国の岡崎城で生まれ、父は松平弘忠という人物です。家康は幼いころ「竹千代」と呼ばれておりました。家康は3歳で母親と離れ離れになり、1547年家康が6歳の時に今川へ人質として送られてしまいます。2年の歳月を人質として過ごすのでした。しかしその際に今川家で様々な教育を受けています。今川義元が非常に頼りにしていた太原雪斎という人物です。彼は学問だけではなく、戦の経験も豊富であることから、家康はいろんな知識を身に着けていくのです。そして家康が14歳の時に元服。次郎三郎元康と名前を変更します。そして結婚を期に再度名前を蔵人佐元康と改名するのです。そんな中、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れてしまったことをきっかけに、家康は今川と縁を切り、織田信長と同盟を結びました。これを「清洲同盟」と呼んでいます。それと同時に今川義元からもらった「元」という字を捨て家康と名乗ったのが徳川家康が誕生した経緯です。

徳川家康の人物像

「徳川家康」は、長い間人質として、幼少期を過ごし、質素倹約に努め、長生きをすることこそが一番の得だと学び、健康には誰よりも気をつけていたそうです。しかし、一度人生で大失敗を犯してしまいます。武田軍に敗北し脱走している最中に、脱糞をしてしまったと言われています。そんな三方ヶ原の戦いでは、戦後に悔しがる自分の肖像画を描かせ、家康の生涯の教訓にしたそうです。そんなことから「徳川家康」という人物は、辛抱強く・謙虚な心を持った人物であったことが想像できるでしょう。

徳川家康の偉業

偉業1.関ヶ原の合戦で石田三成と戦うことになり、見事勝利をする。
偉業2.金ヶ崎の戦いに参戦し織田信長を助け、朝倉・浅井連合軍との姉川の戦いでも活躍する。
偉業3.江戸幕府を開府し、征夷大将軍になった。
偉業4.「武家諸法度」や「一国一城令」などを制定した。
偉業5.長篠の戦いで武田勝頼相手に大勝利する。
「徳川家康」は、生涯にわたって様々な偉業を成し遂げております。優れた知識・判断力を兼ね備えてると言えるでしょう。

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徳川家康の作品や名言

「人の一生は負て遠き道を行くがごとし」「急ぐべからず。」「不自由を常と思へば不足なし」「心に望みおこらば、困窮したる時を思ひ出すべし」「怒りは敵と思へ」「勝つ事ばかり知りて負くる事を知らざれば、害その身に到る」「おのれを責めて人を責むるな」「及ばざるは過ぎたるよりまされり」など「徳川家康」は数多くの名言を残されております。

徳川家康まとめ

「徳川家康」が天下を取れたのは、やはり時と運と彼自身の忍耐力があったからではないでしょうか。そして天下を取ってからも、決して安心せず、死後も徳川家を見守り、大切にしてきたからこそ15代まで続いてきました。武器を持ち争う日々から、天下の泰平の日々をもたらせてくれた、「徳川家康」はやはり名君であったと言えるでしょう。現代に生きる人々も「徳川家康」のような生き方も参考にしてみては、いかがでしょうか?

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